女ふんどしの起源





女ふんどしの原点=日本書紀「雄略天皇」
 これは恐らく女相撲マニアの間では比較的知られている話ではないかと思います。日本の史書に「相撲」という文字が最初に出てくるのは、日本書紀「雄略天皇」13年( 469) 9月にある以下の記述です。



 秋9月、工匠の猪名部真根(いなべのまね)が石を台にして斧で材を削っていた。終日削っても、誤って斧を石の台にぶつけて、刃をつぶす事はなかった。天皇がそこへやって来て怪しんで問うた。
 天皇:「たまには間違って石にぶつける事はないのか。」
 真根:「決して誤ってぶつける事はありません。」
 そこで天皇は采女(うねめ)を集めて、着物を脱がせてフンドシを締めさせ、皆の前で相撲をとらせた。真根は少し手を休め、それを横目で見ながら作業を続けた。しかし、相撲に気を取られた真根は誤って斧を台座の石にぶつけ斧を傷つけてしまった。天皇はそれを責めて言った。
 天皇:「先ほど私に言った言葉を忘れたか。不貞の心の奴が、妄りに軽々しい言葉を言う。」
 そして刑吏に渡し野で処刑するよう命じた。そのとき真根の同僚の工匠が真根を惜しみ嘆き歌を詠った。
「あたらしき 伊名部の工匠 懸けし墨縄 其が無けば 誰か懸けむよ あたら墨縄」
(作者注)
意味は「ああ、惜しむべき猪名部の工匠よ。彼の掛けた墨縄の技術は立派なものだった。彼がいなかったら、誰が彼の妙技を継ごうか、継ぐ者はないだろう」(講談 社学術文庫 日本書紀 宇治谷猛 著より)

 天皇はこの歌を聞いて後悔し嘆いて言った。
 天皇:「うっかり得難い人を失うところであった。」

 そしてすぐに赦免の使いを、甲斐の黒駒に乗せ刑場に走らせ、刑を取りやめさせた。そして縄を解き放ち歌を詠んで言った。

「ぬば玉の 甲斐の黒駒 鞍着せば 命死なまし 甲斐の黒駒」
(作者注)
意味は「甲斐の黒駒に、もし鞍を置いていたら、手遅れになって、工匠は死んでいただろうなあ。甲斐の黒駒よ」(講談社学術文庫 日本書紀 宇治谷猛 著より)



●一説にはこの挿話は雄略天皇の猛々しさを強調するために作られたフィクションだとも言われていますが、いずれにしても日本史の中で「相撲」という言葉が初めて登場した書物ということで注目すべきです。ましてや女ふんどしです。後にも先にもこの采女(うねめ)たちをもって日本女ふんどしの起源としてもよいと思われます。(⇒采女について/采女の語源について)

采女相撲の図(MuramasaBlade様のイラスト)

●この雄略天皇の時代は、まさしく暗黒の時代だったようで、天皇がいとも簡単に人の命を奪っていたことが判っています。(歴史的に見ても、文明の未開な時代ほど、人は死というものを身近に感じていました) その雄略天皇の時代に采女の制度が整いました。その証拠にこの雄略紀の中だけでも采女に関する記述が6箇所(元年3月、2年10月、9年2月、12年10月、13年3月、13年9月)見られます。また同じく「古事記」の「雄略段」にも采女の話が記載されています。
 采女には「面貌端麗(かほきらきらしく)、形容温雅(すがたみやびかなり)」が求められており、そのため采女の性までが天皇の占領下にあったことは容易に想像できます。当然采女は他の男と交わることは禁忌であり、またそれ故に、一般の人々の采女に対する性の関心も高かったことと思われます。
 そのような、性を意識させる特殊な存在であるところの采女が、裸にふんどしひとつの姿で相撲を取ったということは、上述の真根でなくとも、「目を奪われる」事柄であったことでしょう。


2番目に出てくる女相撲の公式記録
公式記録に見る2番目の女相撲の話もやはり雄略天皇に関するものです。
 雄略天皇時代の吉備地方に上道臣氏(かみつみちのおみ)という豪族があり、その一族に美貌で有名な稚媛(わかひめ)がいました。ある時雄略天皇がこの稚媛をに召し上げようとしたために、それに反発した上道臣氏の隣の豪族下道臣氏(しもつみちのおみ)が、雄略天皇のもとに召し出していた自分の采女全員を連れ戻し、その中で体格の良い采女を自分に、幼女を雄略天皇になぞらえて相撲をとらせた、という逸話が残っています。

●これら歴史上の記録を見ても、当時から采女に相撲をとらせるということ自体、特殊で淫靡な意味合いがあり、それゆえに比較的頻繁に、しかしこっそりと行われていたのではないでしょうか。
 更にこの下道臣氏の逸話で注目に値するのは「幼女に相撲をとらせた」という部分です。当時の状況から考えて、この幼女もふんどしを締めさせられたことは疑いもなく、今で言うところの幼児ポルノの雰囲気が漂ってきます。 ⇒今より平均寿命がずっと低かった古代では、早いうちに子供を生み育てる必要があり、そのため性的成熟は今よりずっと早かったのです。そのためここでいう「幼女」とは8歳前後ではないかという説もあります。(因みに采女として召しだされる時の年齢条件は13歳〜20歳でした)

●驚くことに、中国でも「相撲」という言葉が初めて歴史に登場するのは、やはり女相撲がらみでした。中国三国志に登場する呉の国の最後の皇帝孫皓(そんこう)の時代に官女たちに相撲を取らせたという逸話があります。但しこの時の官女の服装がふんどしであったかどうかは定かではありません。また冒頭に引用した雄略紀はこの三国志にヒントを得たという説もあります。(⇒中国の采女について)


*このサイトは「ふんどしビキニ調査隊」(日本ふんどしビキニ保護振興協会公式サイト)を元に作成しています。




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